2011年4月6日水曜日

振り返って感じた、教育のこと。

別に「語る」つもりはさらさら無いのですが、ふっと10年ほど前のことを思い出したので書こうかな、と。

10年ほど前、僕がまだ学生の頃に小学校の担任の先生にお会いしました。
お酒を飲みながら、ほぼ10年ぶりに再会する先生との時間、学生の身ながら、自分が少しだけ大人になったことを感じたのを今でも覚えています。

「おぉ、丸田。立派になったなぁ。」
そうおっしゃられた先生は、続いて、
「どうしたら、お前が、丸田が、そんなに立派になれたんだ?」
と聞かれました。

こう書くと失礼に感じますが、先生の中では子どものころの僕で止まっているんです。
ろくに勉強もせず、いたずらに問題ばかり起こし、いつも怒られていた僕しか知らない先生にとっては当然の質問だったと思います。

そして、僕はその時に初めて自分がどこかで違う道を歩き始めたのだと気付きました。
と言うのも、僕のまわりは大学はもちろん、高校に行かない、もしくは入っても続かなかったりする子が多く、やんちゃな子は警察にお世話になっていました。
僕もそのまわりに流されていれば、というより、当たり前にメインストリームに乗っていれば彼らと同じようになっていたでしょう。
別にそれだったら、それで良かったのかもしれません。

しかし、今ある自分を考えてみると、本当にありがたいことに、多くの素晴らしい方や素敵な方に出会い、特別な経験をさせてもらっています。
これはきっと、そのメインストリームに乗っていたら出会えなかった、体験しえなかった経験ですし、それが自分の人生にないことは今となっては信じられません。
このことは僕の両親の教育方針にしっかりと感謝すべきことだと思います。
本当にありがとう。

僕はしばらくの間、考えていました。
何を両親に言われて育てられたか、どんなことを意識するように育てられたか、を。

ところが、あまり無いんです。
別に哲学者なわけでも、思想家なわけでもない普通の両親ですから、なくて普通なんだと思うんです。
そんな中でも、唯一考えられるのは、自分は自分だと思うこと、これを教えられたような気がします。

子どもの頃は、人と同じものに憧れます。
まわりが持っているものを当たり前に欲しがり、まわりが着ているものを当たり前に着たがり、まわりが考えていることを当たり前だと考えようとします。
みんなと同じ、で居たいんです。
みんなと同じ、という選択は集団社会の中では安心を与えてくれるはずであるものですから。
ましてや、まだしっかりとした人格が形成される前の子たちですから、その安心は無条件で心地よいものと思います。

でも、僕の両親はみんなと同じようにはしてくれませんでした。
あなたはあなたです、と。

みんなが右に行けば、左もどうか、と勧めました。
みんなが前に行けば、後ろに下がってみても良いのでは、と思わせてくれました。
僕はみんなと右に行きたかったし、みんなが前に進むのなら僕もくっついていたかったのですが、僕の両親はそういった選択は簡単にはさせてくれませんでした。

意識こそしませんでしたが、冷静に考えてみるとやはりその考え方が今ある僕を形成したのだと思います。

自分は自分だと思うこと、自分を特別に生きること。

今になって思えば、もっとそう強く思っても良かったと思います。
ただ、そこまでの自信が当時の僕はもてなかったのでしょう。それは仕方がありません。

そして今、僕は自分より年齢の若い方、自信を無くされたりして、色々と悩んでいる方、また、反抗期を迎えているお子さんを持つご両親や、教育に従事されている方とお話しする機会を多く与えていただいております。
その際にいつも思うのは、自分やその対象になる方を特別に生きるように仕向けることが大事なのでは、ということです。
もっと言えば、個という存在意識を植え付ける、ということにもなるでしょうか。

学校の勉強が退屈に思う事もあると思います。
間違いなく、私は退屈でした。

同じ学校の子たちと折り合いが合わないことも少なくないと思います。
私は折が合わず、毎日ケンカをしておりました。

でも、それは世界観の違いであって、仕方がないことです。
ある程度大人になると、誰もが自分、そして人の世界観を感じますよね。
子どもにだってそれはあって当然だと思います。
特にものや情報に溢れた現代の子どもさんは、趣向や考える物の角度も僕が子どものころよりもずっと多様化しているはずですから、それは増えてしかるべき、これからもっと増えて当然のことだと思います。
ただ、そのことに気付くのは、もう少しだけ「大人」になってからなのかもしれませんが。
それが分からず、感情的になるのが、いわゆる子どものケンカの一因であり、感情的になり、その先を考えられずに勉強するという思考をストップさせてしまうのが、勉強放棄の一因、一端にあたるかと僕は考えます。

それとは別に、自分が、またはお子さんが、他の子より置いて行かれている、もっと言うと他の子より劣っている、と感じることだってあると思います。
でも、そこで無理にまわりに合わせる、合わせようとさせる必要は無いのかもしれません。
大人になって、無理にまわりに合わせてもろくなことが無いと思いませんか?
中途半端に勉強を無理にさせるより、得意なことや好きなことをぐっと伸ばすことの方が重要かもしれません。
そこで身につく自信は、親も含め、他の人には想像もできないくらい大きなものだと思います。
また、そうして自分を特別に生きていけることが、将来的にプラスとなると僕は身を通して感じています。

語る気はない、と冒頭で言いながらも、長々と語ってしまいすいません。
でも、もし自分は、または自分の子どもは、落ちこぼれなのかもと思い、それを不安に思ってしまいそうでしたら、まずは不安にならずに一度ゆっくり考えてみてください。
不安を感じるほどのことではないはずですから。

丸田 憲司